確かにそこはEブロックだった【舞台グリーンマイル感想】

 

 

舞台グリーンマイル、全公演終了お疲れ様でした。そのときその瞬間の「もの」が至高であるけれど、今まで様々な加藤さんを見てきて、私にとってこの舞台が至高でした。以下の記事は私的千秋楽の、東京公演が終了したのちに書いたものになります。

 

 

 

この記事が投稿される頃にはだいぶ日が経っているであろう、舞台グリーンマイル 東京千秋楽が先程無事終了しました。こんなに気持ちが持っていかれたグリーンマイルの世界が大好きで、寂しくて、この気持ちを私自身忘れたくなくて、勢いのままポチポチしています。

原作の予備知識を何もないまま観劇した今回の舞台。ありがたいことに複数回観劇させていただいたけど、観劇後の感想は毎回「自分の中に形容しがたい複雑な感情が行き交っている」でした。加藤さんかっこよかった!も勿論だけど、それ以上に会場を出てトボトボ歩く私は足元ばかりを見ていた。

 

まずは照明や音楽といった演出について。無駄な物が音楽が一切ないミニマリストのような空間は、平成の現在に世界大恐慌の状景を映した。土の香りがするような…アーシーなサウンドが、私もこの時代に来たのだと錯覚させる。サントラが欲しい。また、通常1階に比べ少し落胆してしまう2階3階から観る舞台上は照明によりグリーンマイルの世界が助長されていた。実際にはないはずの檻が、Eブロックの外の世界が、そしてグリーンマイルが目の前にある。物理的な事項も照明が補うどころか重要な要素として大活躍しており、コーフィが吐き出した大量の虫で溢れる演出は鳥肌が立たない瞬間なんてなかった。自分の鳥肌がまるでその虫に貪られているかのような感覚が気味が悪かったけど大好きだった。会場に電気椅子だけ照らされたシーンは恐ろしいほど神々しく、これからこの世を旅立つ死刑囚を導く。演出が登場人物をさらにそれぞれの高みへと魅せてくれる、そんな印象を持ちました。

 

次に登場人物。加藤さん演じるポールはペナルティどころではなくなる今後が想定できても行動に移す、まるで少年漫画の主人公のような人物。でもコーフィの死刑をえぐられる気持ちで受け入れた姿は上述の少年漫画っぽさはなかった。抗えない事柄があることを理解できなくてもするしかない、ということを理解している。あれをこうしたい、これはこうしたい、が通らないことをわかっているリアリスト。ポールは彼としてだけではなく、語り手*1としてもグリーンマイルの世界を明確に私たち観客に魅せてくれた。

コーフィと車の荷台で交わす会話のポールが私には遠くに、微かだけれど加藤さんの姿が見えた。急かされるようにつらつらと淀みなく発せられる言葉、「いや、でも〜」といった反語はリアリストの彼がハッと現実を見る瞬間。 自分の考えを自分で瞬間に改める姿がまさにそうだなぁと。

私自身ポールのセリフで一番考えさせられたのは、コーフィの処刑からかなりの年月が経って周りのひとたちはみんな死んでしまったことに対する一言、「俺はまだ生きている」。その後続く彼の言葉を借りるなら、ポールが「生きる罰」だとするとコーフィは「死んで得る平穏」だなぁと。生死が必ずしも天地を明確にするわけじゃないような、断言できないような。ポール含め看守たちの死ぬべきではないに対するコーフィの、「心配いらないよ」「大丈夫だよ」はまるで空腹の胃をゆっくり握り潰されたような感覚だった。過去のことが「わからない」ことが多く、未来のことが「見える」というコーフィ。自分の平穏は最果てにしかないことも「見える」から抗わなかったのか。わからないけど、「待ってるよ、ボス」と言ったコーフィが逝った世界で確かにポールを待っていてくれていることはわかった。

ポールの同僚、看守のブルータス。ポールのよき右腕というより、よき相棒。ディーンはふたりの弟分のようでかわいがってもらっているんだなぁ…とほんわか。ブルータスのマウスビルの下りはこの舞台で一番フフフッとくるシーンで、常に眉間に皺を寄せていたポールや私たち観客も思わず笑みがこぼれる。ディーンの随所随所の挙動不審になる演技もクスッと来てしまう。それをふたりに小突かれるディーン…(笑) 頬が緩むシーンはこの舞台において「楽しみ」で待ちわびていたひとも多かったのではないだろうか。

ポールとこのふたりも交えて、双子の少女殺害の真相に迫るシーンは点と点が線でつながっていくなか、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。少女殺害の真実が判明し、無実のコーフィを処刑できないと、途方に暮れるディーン。張り裂けそうな気持ちを持ちながらもそれでも仕事だからと、やるよ、というブルータス。民主主義と照らし合わせて、自分含めこの国のすべてのひとが死刑囚を殺しているんだ、というポール。「無実のひとが処刑されたくないから」か「自分が人殺しになりたくないから」なのか。ブルータスの仕事だから、はポールの言う「看守も自分自身を守っている」に繋がると思うし、三者三様の死刑に対する意見は、結局は自分自身が思う方向に進んでいくほかないんだと思った。

ムーアズ所長が一番コーフィの件で目を背けているように見えた。コーフィの力を目の当たりにし、彼がやったとはとても思えない、と言葉にしても。純粋に事件の真相へ踏み込まなかっただけなのか、あえて踏み込まなかったのか。後者な気がするけど、「知りすぎてしまった」ポールたちに対して、知らないこともまた自身の盾となるのだろう。また、妻メリンダと対面するたびに、コーフィのことが根深く、鮮明に思い出されることであろう。所長もコーフィと向き合うことからは逃れられないのだ。

このグリーンマイルの登場人物の中で一番好きなのがパーシー。コネと看守の立場を武器に放埓な男。嫌いなひとが多いと思うんだけど私は好きです、…人として手遅れな感じが。のちにコーフィの不思議な力によって、パーシーがウォートンを射殺するんだけど、ここはコーフィのパーシーとウォートンふたりに対する、凶悪粗暴な人殺しに復讐せよ、といったような背景を感じた。純粋だけではないコーフィが存在したのだとも。いくつもの非道な言動、行動が見て取れたけれど、デラクロアの処刑で最後に言い放った「そんなところ(マウスビル)は存在しない」が本当に本当に、残酷だった。ミスター・ジングルスがサーカスのねずみになることを心から嬉しく思っていたデラクロア。でも、もしかしたらデラクロアもマウスビルが看守たちの作り話とわかっていたのかもしれない。どちらにしても、そんな看守たちのデラクロアを思いやる気持ちはパーシーによって踏みにじられてしまった。酷く痛々しい最期だった。楽に逝けず、苦しみながらの最期。彼の一言でEブロックの雰囲気が柔らかく明るくなり、ミスター・ジングルスを愛する姿を見ていると、なんで彼がと思ったりもしたけれど、収監される経緯があったから。ポールとコーフィの言う「かわいそうだった」は楽に逝けずに、という意味なんだと思うけど、通常通りの処刑だったら私はどう思ったんだろう、と今もモヤモヤしている。

同じく死刑囚の、寝ているだけでも不穏な存在感を放っていたウォートン。死刑囚三人が簡易ベットに横たわる姿もそれぞれで、コーフィは大きな身体を守るように丸めて、デラクロアは両手を胸の前に合わせて真っ直ぐ。ウォートンは片足を立てて、枷で繋がれた腕をだらん、と床に下して指先で床を撫でる。三人が寝姿からもどのような人物か見て取れた。そんなウォートンがパーシーに絡んだ際、上手側から観たときにパーシーの耳を直に舐めているように見えた。その後に目が行ったひとも多いと思います…。なかなかの時間、自身のを撫でていたんですよね…。このシーン、のちの物語終盤の架け橋だったのではないかと思った。また、怖いもの知らずに見えるウォートンも地獄の話はやめろ、と絶叫する。このとき、逝った先に待っているのは天国か地獄のどちらかだけなのだろうか、一番の地獄は天国にも地獄にも行けないことだったりするのだろうか、とか考えたりもした。彼はどうなったんだろうか。

 

この物語グリーンマイルに完璧なる救いの手は見当たらない。コーフィは少女たちを殺害していないのではないかという「疑心」、その犯人はウォートンだったという「真相」。この疑心と真相が交錯した現実は望むものではなかった。コーフィの死。そこから繋がるは、コーフィの分まで生きる使命を与えられたポール。信じられないような出来事が重なっても、誰もそれぞれの現実からは逃れられない。立ち向かう必要はないけれど、かといって逃れられるものではないということは、些細な日常でも多くあり得るのではないだろうか。

生臭く、係わり合いにならなかった、ならないようにしていたテーマ。でも舞台が終わった今もグリーンマイルのことをずっと考えている。場面場面で考えることは多々あったけれど、それでも遠いものに感じてしまった死刑制度。コーフィの不思議な力がファンタジー要素と成ってそう思ったのもあるし、それ以上に自分の中で考えないようにしているのかもしれない。いや、自分では考えが及ばない。これは一意見なのか、それとも問題を直視しようとしない、と言えるのか。観劇後にも脳裏を去らないこの舞台と、本当に出会えてよかった。

 

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目の当たりにしたEブロックの様々な出来事は、のちのちまでも消えないだろう。 

 

 

 

 

 

*1:保安官のナレーターの「銃か!?」の鬼気迫る感じが好き